PRIDE OF FUKUYAMA
事業内容

『水野勝成公が残した偉大な贈り物』

まえがき

広島県福山市は私のふるさとです。瀬戸内海の真ん中、広島県東部、岡山県との県境に位置する人口48万人の地方都市です。1970年頃までは人口8万人ほどの小さな市だったそうですが今は福山市を中心に周辺五市を含め100万人経済圏の中心都市になりました。

お城のすぐ隣に新幹線の駅がある全国でも珍しいところです。この地は徳川家康の従兄弟である水野勝成がお城を築くまで海沿いの小さな船着場、漁村だったそうで、今回 お城ができた経過から人口48万人の都市に発展するまでの礎が何なのか、郷土の歴史を振り返ります。

1.水野勝成、福山入封の経緯

関ヶ原の戦い以降、後に福山藩となる備後地方は安芸国と共に福島正則によって領有されていた。

しかし、正則は歴史上有名な広島城無断修築の咎で元和五年(1619年)に芸備49万8千石から奥州津軽4万5千石に改易となり、領地は安芸と備後に分割された。安芸は浅野長晟に与えられ、備後は徳川家康の従兄弟の水野勝成が大和国郡山藩から四万石の加増を受けて十万石で入封することになった。時に勝成56歳であった。

勝成は大坂の陣で後藤又兵衛を破るなど歴戦の勇士であり、「鬼日向」の異名を持ち勇猛果敢、諸将から恐れられる武将であった。
幕府から与えられた使命は、西国鎮衛。入封当初の構成領地は、備後国の深津郡、安那郡、沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡、備中国の小田郡、後月郡のそれぞれ大半であった。

現在の行政区分では福山市全域と尾道市の東部、府中市全域、三次市や庄原市の南部、神石高原町の大半(以上広島県)、笠岡市や井原市の西部(以上岡山県)である。

2.築城計画

元和五年(1619年)八月、水野勝成は西国鎮衛の幕命が下った後、現在の福山市北部、山陽街道沿いの神辺城に入城するものの、調べて見るとこの城は築城以来三度の落城を経験していた。

また神辺の城は陸上の要所であると言う利点はあるものの、当時定着していた船舶を利用する大量輸送を活用するには海に臨まないという欠点があった。勝成は十万石の領地の中心地としては不適切であると考え、新たに城地を選定し城を築くこととなった。

新たな城を築くための候補地として挙げられたのは次の三箇所である。
①箕島(現・箕島町…海に突き出た島)
②亀寿山桜山城跡(現・芦品郡新市町宮内…内陸部・旧山陽道沿い)
③常興寺山(現・福山城…南に干潟を有する沿岸部・海に向けて岬のように突き出した半島)

結果、三つの候補地から③常興寺山が選定され、翌年(1920年)初頭に城普請(土木工事)が開始された。

何故この地が選ばれたのかについては適切な資料が残されていないため確かな理由は分からない。

しかし、築城櫓名に乾櫓(西北)、鬼門櫓という名が福山城図に見えることから勝成が中国の風水思想や陰陽学を参考にしたことは確かである。

すなわち福山城の位置は四神相応となって北方に山・「玄武」、南方には平野が開け先には海と山・「朱雀」、西方に往還(山陽道)・「白虎」、東方には芦田川・「青龍」という配置の中心となっている。城下の繁栄を祈念して風水による適地の選別が行われたことが推定される。

3.築城前の福山の姿と第一次城下建設

勝成は大坂の陣で後藤又兵衛を破るなど歴戦の勇士であり、「鬼日向」の異名を持ち勇猛果敢、諸将から恐れられる武将であった。
幕府から与えられた使命は、西国鎮衛。入封当初の構成領地は、備後国の深津郡、安那郡、沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡、備中国の小田郡、後月郡のそれぞれ大半であった。

現在の行政区分では福山市全域と尾道市の東部、府中市全域、三次市や庄原市の南部、神石高原町の大半(以上広島県)、笠岡市や井原市の西部(以上岡山県)である。

城郭の建設が始まった常興寺山から東西南は一面に海が広がり、常興寺山の三方向に設けられた干拓地は城郭にへばりつくように開かれて、神島の商人らの町は旧芦田川本流を利用した入り河に船を導くことができるように作られた。商人たちの町の外側には寺院が配され、それより南は海となった。神島の商人たちは城下にできた船着場を利用して交易を行うこととなった。勝成は1621年(元和7年)城普請に着手し約一年半で城を完成させた。同時に町人を集めこの初期の城下を町づくりの核としてさらに南と東に商人町を拡大していった。

新城下の干拓地は一応の潮止めを行なったとはいえ、まだ一面は干潟の状態で町として利用するために十分な土壌であるとは言いがたい状態にあった。城下町建設に際し、勝成は商人集積・農民移住・人夫確保のため領内各所に高札を立て、新しい城下に来て商いし、職仕事をするものを募る命を出した。このことにより領内外から多くの人々が各村の庄屋を保証人として城下に入り、城下町の建設に携わった。また勝成は、この地に入り自力で屋敷地を造った町人にはその屋敷地全てを無償で与え、永代地子銭や諸役などを免除した。

後に水野氏が断絶し(天保十一年/1698年)、幕府が三代官を派遣し岡山藩に命じて領内検地を行った際、福山の城下町に地子銭や夫役などの諸役を義務付けようとした。しかし勝成の時代に制定され、城下で実施されたこの政策は踏襲され、その後入った阿部氏もまた幕府同様町人らの反発にあい、税や諸役の義務付けを撤回することとなった。このため明治政府による地租税が制定されるまで町人たちは地子銭を払うことはなかった。勝成が入植民に対し経済政策としてこのような恩恵的特権を与えたお陰で、次々と町並みはスピーディーに形成されていった。

4.干拓と城下・新田開発

水野氏治世八十年の福山藩時代は、新田開発の連続であって、現在の福山市街地及び新市街地の大部分が、水野治世時代に田地として造成された。これが根幹となって現在の福山市が形成されている。現在のように重機やダンプ・トラックのない時代にほとんどすべて人力でしかも短期間に広大な農地が干拓されていったことは、脅威的なエネルギーといえる。土木技術的に土砂はどこから運んだかとか、何年で米が収穫できるようになったかとか興味は尽きない。

この造成期を藩主と担当奉行の区分により、第一期から第四期に分けることができる。

<第一期>

第一期は水野勝成城下造成期の元和五年(1619)から寛永十六年(1639)の隠居時までの20年間に行われた主に城下形成を目的とする一面の海の潮止め工事である。第一期の初期造成は、南は本橋(後の天下橋)、東は本橋までの南北の線、西は若宮八幡社(現福山八幡宮西の宮)から西町を結ぶ線まで城下町として形づくられた。当時芦田川の本流は初期城下の中央を流れていた。

そこで勝成は城下西に堤防を築き、まっすぐ南へ本流を付け替えた。この干拓造成は、本庄艮ノ鼻から始まる野上堤防1100間(けん)の造成で、これで芦田川の流れを仕切り、西町、古野上が造成されていった。同時に木之庄に水門を築き水流の一部を城の北側を迂回させ城下に導き掘りに水を入れた。さらに東に川を開き(現福山医師会館東の川)旧本流に戻した。旧本流は掘割から海まで運河(福山港入り江)として使用した。大手門前まで続く福山の入り江は旧本流をそのまま築堤して水路とし、多くの船が船町、御舟町に出入りした。

その後、吉津橋と新橋を南北につなぐ線まで干拓は拡大され、城下はさらに新橋の南に広げられた。この外側に城下防御のために多くの寺院が建立され城下としての町並みの整備は進んでいった。正保年間(1644年~1547年)に大体完成し、領内各地から多くの商人群が移住してくるようになった。

<第二期>

第二期は勝成が76歳で隠居し二代を勝重に譲り渡した寛永十六年(1639)から慶安四年(1651年)勝成が死去するまでで、現在の国道2号線以北の干拓はほとんど完了した。
寛永年間の城下整備としての野上新開、新田開発としての引野新開、吉田新開、春日池、大谷新開(大門)が4年ほどの間に矢継ぎ早に完成した。(2期(寛永年間))引き続き正保年間4年の間に市村沖新田、引野佃沖新田、三吉新田、舟入新田、福山沖新田、深津沖新田と拡大していった。(第二期 正保年間 勝成公 在世中の新田開発)
隠居後の勝成は常時福山に居り、城下町建設については直接総奉行を指揮していた。なぜ勝成がこれほど干拓事業に精を出したか、それは次のようなことによる。寛永9年(1632年)肥後熊本領主 加藤忠広が改易となった時、城請け取りのために九州熊本に軍勢を引いて出張ったこがあった。その時、勝成は加藤清正が肥後領においておこなった大干拓事業の成果を見た。勝成は大干拓事業によって54万石が70万8千石になっている姿を目前に見たのである。寛永12年(1635年)8月4日、幕府は水野氏に小判一万二千両、銀380貫を10ヵ年返済で貸し付けた記録がある。水野氏にとって財政的に負担である干拓事業の資金はこれらによって賄われた。第二期干拓完了の4年後、勝成は88歳でこの世を去った。

<第三期>

第三期は三代勝貞の時代、1655年~1660年にかけて行われた干拓で沖野上新田、多治米新田の干拓がおこなわれた。(第三期 三代勝貞時代の新田開発)

<第四期>

第四期は四代勝種の時代、1660年~1675年寛文年間におこなわれた手城新涯、川口新涯、草戸新田、野々浜新開、大谷新涯(水呑)である。水野家断絶の元禄十一年(1698年)五代水野勝岑(かつみね)まで家臣群主導により断続的な干拓工事が進められた。(第四期 四大勝種時代の新田開発)
この第四期で現在の福山平野の80%以上が形成された。勝成が福山へ入府してから55年の後である。人力で進めるほか手段のなかった時代に驚異的なスピードで事業が完遂したことは特筆すべきことである。

<第五期>

第五期は時がずっと下って阿部家10代阿部正たけ治世の慶応4年(1868年)から明治に入った明治4年(1871年)の大新涯と三角新涯の干拓である。(阿部家時代の新田開発)

5.干拓の詳細

第一期は基本的な城下町の造成に全力が注がれ、ついで第二期の干拓で正保4年(1647年)頃までには深津高地西方の海はほとんどが開拓造成された。

勝成の治世である第一期は福山城と初期城下が完成した後、領内の掌握や島原出兵などで多忙を極め、勝成は干拓事業に注力できなかった。家督を二代勝重に譲った後の勝成はようやく城下干拓に力を注ぐ環境が整い、家老と力を合わせ干拓に専念していった。第二期の完了は福山入城から28年後、勝成、時に84歳であった。

第二期に入った寛永二十年(1642)市村継から深津山寄せの市村から城下へ入る道が市村継から辻の坂に通じた。この継は古代から塩の生産が盛んでここから背に塩を負い、海老寺前の港まで運んでいた。

この市村新田の造成に続き市村山の南端から対岸の狐崎との間に割り土手が築かれ潮止めが行なわれた。この干拓地を吉田新開という。この吉田新開が田地を拓く最初の干拓であった。それまで海はこの浦に奥深く入りこんでいて、その一番奥を浦上といった。新田が造成されると領内各地より入植者を藩が募り集まった。これはそれまでと同様に、そのものの努力によって開発された土地は全て無償で与え、五年間の年貢免除を与えることでその間に実収が出来るよう努力を求めた。

農地が造成されるに伴い灌漑用水の確保が急務であるとして、浦上とその対岸の能島の間に多く名堤防を築き池の造成を命じた。このことは小場家文書のなかに述べられており、少しでも多く水が貯められるよう大きな池を作ることを総奉行に命じている。これが春日池である。周囲二十八丁、池敷地面積一町九反の大池である。…(第二期の大池大工事)
この時の人夫は領内全域から集められたが作業は農閑期に行なうことが厳命され百姓にも日当が支払われた。これにより吉田新開六十町歩が完成した。

次に行なわれたのが市村沖新田である。これは深津の現・米座と対岸の引野高崎を結ぶ堤防であり、これによって九十四町歩の大農地が生まれ、引き続き梶島山と引野宅部を百間堤防で結び梶島山と前古屋とを結ぶ石鎚畷が出来上がった。これを佃沖新田(百十八町歩)という。

続いて正保三年(1646)深津王子山より、梶島山を結ぶ千間堤防が築かれ、深津沖新田が築かれた。…(第二期の千間土手の大工事)

大きな干拓新田が造成され、領内各地から多くの入植者が集まってきた。農地が造成されると、今度は灌漑用水を如何にして分配・使用するかが問題となってくる。市村新田のためには本庄二股の芦田川配水を本庄、木之庄、北吉津、奈良津、岩山下を通して上井手水路を造成し、市村に引いた。

この時一番困難な工事となったのが継の掘割工事であった。当時、この山を隔てて東の市村から城下に入る道は、深津を通り辻坂へ出て松原から城下へと入った。この山を越え奈良津へ通る道は一面沼地であり、この地に水道を通すことは当時としては大工事であったが、多くの人夫を集めて日夜に亘る難工事を成し遂げ、市村沖新田のための灌漑用水が確保された。…(第二期の難工事)

小場家文書によると、この時期、福山沖新田を造成したという書状がある。当時、芦田川の流れは堤防が不完全で洪水のたびごとに川の氾濫で流れが変わり、田畑に大きな被害をもたらしていた。このことを重く見た勝成は、芦田川の堤防を増強し、芦田川の流れを整え、そこに大きな水田を設けることを考えた。これが福山沖新田である。
また、正保二年(1645)には服部川から流れる水を貯めるため面積十万八千余坪の服部池を完成させた。

古来以来、神辺平野が沼地から次々と水田化されていったが、この平野を流れる高屋川や加茂川、また山地から流れる谷川は、大雨によって大災害を引き起こし、沼地化し、また土砂を被って荒地化していた。勝成はこれらの水路、堤防を整備することで土地を良田化していった。『備陽六郡志』には、芦田川、加茂川、高屋川合流地域の新田開発石高は六千三百二十六石に上り、芦田川流域の新田開発石高は、一万千七百五十四石とある。

この数字は勝成の治世のみではなく四代勝種の時代、寛文十三年(1637)までを統計したものであるが、勝成が行なった農業政策が以後の水野藩にも継承され大きな成果をあげていることを示している。水野藩の開発造成は、勝成の福山城下町築成以来、一貫して藩が全ての費用を賄うことで農民や町民の負担を軽くし、入植者に対しては自力で土地開発を行なわせることで無償で土地を与えるものであった。このことは戦場に置いて、家臣が身を挺して働くことで勝利を得るのであるから、この者たちは平時においては大切に扱ってやらねばならないと常に言っていたというような勝成の人間性がもたらした功績であるといえる。

6.むすび

勝成入城から形成された地理上の資料はあえて現代の地図上に重ね合わせた。これで分かることは福山の地理上のほとんどの平野・耕地は水野治世以来のことであることが分かる。

今 私たちは中世以降の先人によるこの営みの何たるかも知らぬまま、さも当たり前に福山平野の土地資源を利用している。
勝成が約400年先の今日を意識して大計画を実行したとは思わないが、現代の私たちでさえ使い切れないくらいの土地資源を残したのは事実である。

このことからして、私たちが今後果たすべき役割は、勝成の壮大な構想に勝る200年、300年先までも見通した街づくり構想を作ることではないだろうか。

参考文献

おもしろふくやま史  平井隆夫著 (福山城友の会発行)
福山開祖・水野勝成  平井隆夫著 (新人物往来社発行)
新版 福山城     福山市文化財協会編 (同左発行)

築城400年まつり

2022年 福山城は築城400年を迎えます。
先達の偉業を振り返りながら、その偉業に思いを馳せるはせながら、私たちの先祖へ感謝の気持ちを持ちたいと思います。そのためには、私たちが先祖の偉業、歴史、歩み、その遺産を知らなければならないのではないでしょうか?
400年を迎えるその時、今の時代を預かる私たちがこれからの100年、200年を展望を開く気持ちになりたいと願います。これらをきっかけに、私たちの町への誇りをさらに高めたいと思います。一人ひとりが街の誇りを語れるようになりたいと思います。あなたの周りにたくさん街の誇りが埋もれています。発掘しましょう、大事にしましょう、これを語り合いましょう。
築城400年まつりはひとつの通過点です。
決して目的、ゴールではありません。
この通過点を意義あるものにしたい気持ちで 福山の歴史をお伝えしております。